(「猫のすゞみ」歌川国芳)

日本を代表する絵画として世界的に知られ、高い評価を受けている浮世絵。
それは西洋の世界的な印象派の画家たちにも影響を与えています。

何を隠そう、私も浮世絵が大好き。
特に歌川国芳が大好きですが、浮世絵の展覧会があると、時間をつくっては見に行っています。

そこで、改めて浮世絵とはなんなのか、どうやって描かれたのかまとめてみることにしました。

浮世絵とは

「うきよ」というともともとは不安定でつらいことの多い世の中、苦しみに満ちたこの世、という意味で「憂世」と書かれていました。

しかし、徳川幕府が開かれ景気が落ち着き、人々に活気が溢れた江戸時代、つらい世の中だからこそ浮き浮きと楽しんで生きるべきだと考えるようになり、「うきよ」という言葉も「憂世」から「浮世」に変化しました。

そして庶民の生活や人気の歌舞伎役者、娯楽、流行など、現実の江戸時代の風俗を描いた絵画が浮世絵なのです。

人々がエンターテイメントとして楽しむために吉原の遊女、歌舞伎役者、町で人気の美女、力士、火消しや風景画、物語などあらゆる題材がこぞって描かれました。

また、歌舞伎役者のプロマイドとして人気を集めた浮世絵は、ほかにもポスターのように活用されたり、風景画として人々に旅気分を味わう楽しみを与えたりと、様々な分野で広告の役割を果たしたのだそう。
流行の発信ツール、最先端のメディアだったのですね。

浮世絵の種類とつくりかた

浮世絵には、版画絵画(肉筆画)があり、版画は版をつくって大量生産ができたので安価に庶民が手にすることができましたが、肉筆画はまさに絵画と同じく、たったひとつのもののため高価なものでした。

浮世絵は分業でつくられる

版画による浮世絵は、現在の出版社にあたる版元が絵師に描く絵を発注し、絵を描く「絵師」絵を彫り、版をつくる「彫師」顔料をつけて摺る「摺師」で完成させる共同作業です。

版元が企画し、絵師に制作を依頼。

絵師が原画(「版下絵」)を描き、版元に渡し、幕府にチェックしてもらいます。

許可が出れば版下絵が彫り師に渡り、墨版主版・おもはん)を彫ります。
下絵のラインを引いたようなものです。
このようなイメージでしょうか。

北斎が描いた蔦屋重三郎の「耕書堂」

版元によってその絵の色の数が決められるので、その色数ぶん、主版から校正刷りを刷り出します。

校正刷りが絵師の元に戻り、絵師がここの色はこれで、ここはあれで・・・と指示をします。(「色さし」)

その指示書が再び彫り師の元に行き、その色の数だけ版木を彫ることになります。

その後、版木が摺師にわたり、絵師のチェックを受けながら、刷り上げて完成していきます。

北斎が描いた蔦屋重三郎の「耕書堂」

浮世絵には「改印(かいいん)」「落款(らっかん)」「版元印」の記述があり、改印は、刊行の際に幕府の検閲を受けた証として押された印のことで、極印(きわめいん)とも言います。

落款は絵師の署名で、版元印はどこの版元から出版されたかを記載しています。
これにより、いつ、だれに描かれ、どこから販売されたのかがわかるようになっているのです。

彩色の技術

初期の浮世絵は墨一色のモノクロでしたが、重ねて摺る「版」の技術が進歩すると、次第にカラー版が出始めました。

  • 墨摺絵(すみずりえ):墨だけの白黒の版画
  • 丹絵(たんえ):硫黄と水銀の化合した赤土を使って、1点1点彩色を施したもの
  • 漆絵(うるしえ):黒色の部分に漆を使ったもの
  • 紅絵(べにえ):紅花から採取した染料を使ったもの
  • 紅刷り絵(べにずりえ):18世紀頃からの技術で、黒刷りに2〜3板の色版木を加えて筆で彩色したもの

カラー版は当初は色ごとに版木をつくっていたのですが、版木の節約のために色と色を組み合わせて別の色をつくる、ということをしていたそうです。
当時既に色の三原色の減法混色が使われていたのですね。

1765年頃、鈴木春信(1725-1770)が、「錦絵(にしきえ)」という多色刷りの木版画をつくり出し、非常に華やかな、私たちが知っている浮世絵と進化していきます。

顔料に胡粉を入れて中間色をつくり出したり、海外の顔料を入手したり、使用する紙もより上質な紙を使用したり・・・と、微妙な色調も表現できるようになりました。

錦絵は浮世絵版画の最終段階の技法となり、1780年以降は錦絵以外の浮世絵版画はほとんど制作されず、錦絵=浮世絵と捉えられることとなります。

浮世絵の題材

美人画

「高名美人六家撰」扇屋花扇

女性や花魁、ファッションを題材に描かれたものです。

お店の宣伝として多用されていましたが、無名の町人の娘なども描かれ、また実在の女性だけではなく、架空の女性を描いたものもあります。

有名な絵師は「ポッピンを吹く娘」の喜多川歌麿です。

「婦女人相十品 ポッピンを吹く娘」喜多川歌麿

役者絵

「谷村虎蔵の鷲塚八平次」東洲斎写楽

浮世絵の中でも一番多かったモチーフです。
歌舞伎役者を描いたブロマイドのようなもので、芝居小屋の看板絵が発達してできたものとも言われます。

役者が生きている間だけではなく、死んだ時の死絵というのもあるんです。

鳥居清倍東洲斎写楽歌川豊国が有名。

「豊国漫画図会 玄海灘右衛門」歌川国貞

名所絵(風景画)

「東都名所 芝増上寺山内ノ図」歌川広重

なかなか旅行に出かけることができなかった庶民が、名所の風景を知るために描かれたそうです。
また江戸への土産として東海道五十三次富嶽三十六景などが描かれました。

名所絵で有名な絵師は、言わずと知れた葛飾北斎歌川広重です。

「富嶽三十六景 甲州石班沢」葛飾北斎

武者絵

「通俗水滸伝豪傑百八人之一個 九紋龍史進」歌川国芳

歴史上有名な武将や英雄、合戦の場面、文学作品上に登場する架空の英雄をを描いた作品。

江戸時代は今までに比べて平和な時代だったため、あまり人気はなかったようですが、「水滸伝豪傑百八人之一個」の絵の入れ墨が江戸で流行したそうです。

やはりその「水滸伝豪傑百八人之一個」の歌川国芳が有名。
勢いが凄くて、心臓がバクバクします。

「通俗水滸伝豪傑百八人之壱人 短冥次郎阮小吾」歌川国芳

判じ絵

「江戸名所はんじもの」歌川重宣

絵に言葉を置き換えて、それを当てる、というなぞなぞのような遊び絵です。

鈴の絵に目をつけて「すずめ」、さるに濁点をつけて「ざる」など、また、天保の改革の風紀粛正で役者絵などに名前が載せられなくなったため、役者絵に封じ絵を使って名前を載せていたそうです。

このユーモアセンスは当時はきっと「粋」だったに違いありません。

「東西角力のはんじ物」一鵬斎(歌川)芳藤

まとめ

浮世絵について簡単に説明してきましたが、浮世絵は西洋美術、特に印象派に大きな影響を与えています。

日本の陶器を海外に輸出する際にクッション材として使用されていた浮世絵がきっかけで、日本ブーム「ジャポニズム」を巻き起こしたことを考えると、日本では軽く見られているものでも海外では評価が高いものがまだまだあるのではないかと思えますね。

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